令和6年10月 今月のことば
暑かった夏も終わり、ここへきて急に秋らしくなった。
本日(10月12日)の祭典は、「秋季大祭」である。
神社で勤められる秋のお祭は稲作の実りに際して
神の恩恵に感謝することなどの意味合いで勤められるが、
天理教の秋季大祭は、それとは大きく違う。
秋季大祭の意義は、「立教の元一日を祈念して勤める」のが大儀である。
天理教教会本部において10月26日勤められる。その理にならい、
当教会においても秋季大祭を勤めさせて頂く。では、立教の元一日とは、
天理教教典 第一章「おやさま」の冒頭に
「『我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。』とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになった最初の言葉である。
家人は、この思いがけぬ啓示(おつげ)にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳(げん)として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順(したが)う旨を対(こた)えた。
時に、天保(てんぽう)九年(1838年)十月二十六日、天理教は、ここに始まる。」
とある。
元一日とは、「仰せのままに順(したが)う旨を対(こた)えた。」
この年、この月この日である。この年から数えて、今年は187年であり、
この天理教は、これを年号としている。
しかし、この日を記念日として祭典が勤められるのではなく、
「元一日を祈念」して勤められる。祈念とは「祈り念ずること」である。
では、何を祈り念ずるのか?元一日とは、みきの夫の善兵衛が、
「みきを神のやしろに差し上げます。」とお答えになった日。
なぜ神様が、中山みき様をやしろとしてお入り込み下さったのか。
それは、世界一列を助けたいからである。神様天理王命(てんりおうのみこと)は、
人間が陽気にくらすのを見て神も共に楽しみたいと思召されて、人間をお創り下さった。
それゆえ元一日を祈念するとは、世界一列がたすかるように祈ることであり、
世界中の人間が陽気ぐらしするよう念じることである。
さて、世界を見わたすと陽気ぐらし世界とは程遠いどころか、
神様の思いからすれば正反対のことばかりだ。また、戦争の犠牲や、
天災の被災者からすれば、神も仏もあるものか、ときっと思うだろう。
神様は、ふしから芽が出ると仰せられる。人生の大きな出来事、
特にネガティブな事象を木に例えて「ふし」と教えてくださっている。
その木のふしからは、新芽が出て枝先に花を咲かせ、実を結ぶ。
ふしがなければ、新芽も出ない、花も咲かない、実も結ばない。
しかしながら、当事者とすれば、辛く、悲しくそして、喜べない。
心が倒れてしまう。だから、私たちは、大きなふしの時には、
協力して応援して一緒に共に歩もうとする。例えば、災害であれば、
その場に行ってボランティア活動したり、行けなくても寄附をしたり、
さまざまな形で支援していく。その結果、被災地の復旧復興も進み、
被災者の喜べなかった心も、だんだん元気になっていく。
それこそ、新しい芽を出し、やがて花が咲き、実を結ぶことになるだろう。
能登の被災地支援をしている東北の方々が、口々にインタビューで答えている。
「東日本大震災の時にはお世話になった。そのご恩返しをしたい」と。
これこそが、互い立て合い助け合う姿であり、
神様が望む陽気ぐらしの姿ではないかと私は思う。
最初に戻るが、秋季大祭は、世界中の戦争や紛争が治まるよう祈り、
世界中の人々が互いに立て合い助け合う姿、心になるよう念ずること。
そして、迎える今月26日の本部秋季大祭では、立教の元一日を祈念し
真剣に勤めさせて頂き、おやの思いに近づけるよう勤めを果たすことを誓いたいと思う。
追伸、昨日ノーベル平和賞に日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会が選ばれた。
心から嬉しく思う。
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