令和7年10月 今月のことば
文:倉石 信吾
天保9年10月26日、中山みき様が神のやしろにお定まり下されました。
この日は天理教立教の日です。そのため毎年10月26日は本部神殿では
秋季大祭をつとめられます。その理にならい各教会でも
10月の月次祭は秋季大祭をつとめています。
親神様は、人間が「陽気ぐらし」をするのを見てともに楽しもうとの思召で、
この世界と人間をお創めくださいました。陽気ぐらしこそ人間の目指すべき目的地です。
現在の世界はどうでしょうか。国家間の争いは尽きることなく、
日本でも毎日のように凄惨なニュースが報道されています。
平和にはまだまだ遠いように感じます。そして、私は陽気ぐらしは
平和よりもさらに先にあると思います。
ではどうすれば陽気ぐらしに辿り着けるのでしょうか。
その道は途方もないかもしれませんが、教祖が身を以て50年の
ひながたをお残し下されています。まずはひながたを学ぼう
という気持ちを持つことが陽気ぐらしへの第一歩となるのは間違いありません。
ひながたを学び、少しでも実践させて頂くなかに、人をたすける心、
一列きょうだいの自覚が生まれていくと思います。
一列きょうだいとは、人間はみんな神様から見れば子どもであり、
お互いは兄弟姉妹であるという意味です。他人と思い、放って置くのではなく、
兄弟姉妹と思い、お互いにたすけ合う。この心を持つことが、
陽気ぐらしに向かう長い長い道中で、現代を生きる私達の達成すべき
目標ではないかと私は思います。
人との繋がりがだんだんと薄れているのが今の社会です。
そんな中、周りの人や困っている人のことを思うことは難しいことです。
仮に思うことができたとしても、自分に余裕がないのに、家族でもない人に
無償の愛を注ぐことは並大抵なことではありません。恥ずかしい話ですが、
私も一列きょうだいと思える時の方が少ないです。
しかし、こればかりは近道がない気がします。やはり、ひながたを学び、
教祖の御心に触れ、近づこうと歩むしかありません。
このような話をしていると、「そもそも陽気ぐらし目指したくないし、
一列きょうだいなんて思いたくもない」というような、そもそも論が出てきそうです。
それも仰るとおりだと思います。親神様は私達人間に体をお貸しくだされ、
心だけが人間の物としてお与え下さいました。
人間の心だけは親神様にも制御できないのです。そうじゃないよと、
身上や事情でお知らせ下さることは出来ても、心を変えることはできません。
なので、「陽気ぐらしなんて目指してない」という方がいるのは当然のことです。
私が出来ることは、そのように考える方の事も一列きょうだいと思えるようになることです。
私達はどうしても何かをすれば見返りを求めてしまいます。言わば
「ギブ・アンド・テイク」です。しかし、そうではなく「ギブ・アンド・ギブ」、
困っている人をたすけずにはいられない心。与える心こそ教祖のひながたの一部であり、
親神様のお望みになる心です。
私達の成人した姿を教祖にご覧頂く、それが教祖の年祭です。
来年1月26日には教祖140年祭がつとめられます。
明治20年1月26日に教祖はお姿をお隠しになられ、
そこから140年が過ぎようとしています。「陽気ぐらし」という
人間創造の目的を人類が初めて聞いてから、まだ190年にもなりません。
まだまだ日は浅く、私達の心も成熟していないのは仕方の無いことだと思います。
ですが、天保9年10月26日は江戸時代末期であり、文字で記録ができる時代に
親神様は立教して下さいました。
「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」の三原典は教祖が
筆や言葉にして直に教えて下さったことであり、「稿本天理教教祖傅」や
「稿本天理教教祖傅逸話編」など、教祖のひながたを記す本は神話ではありません。
これが2000年前なら作り話や脚色だと一蹴されてしまいますが、190年ほど前、
江戸末期から明治時代の記録です。全てが正確に記録されているとは限りませんが、
信頼していい記録だと思います。親神様の思召、教祖の御心に触れようと思えば
いくらでも触れることができます。そう考えると日の浅さこそが有り難いんだと
思わずにはいられません。
教祖は存命の理をもって、今もなおぢばに留まり、世界たすけの親として
私たちを見守り導いてくださっています。私達は、そのぢばを心のふるさととし、
教祖のひながたを慕いながら、陽気ぐらしを目指し、一日一日を積み重ねていきます。
2000年、3000年経った時、積み重ねたものがどうなっているのか楽しみですね。
それを楽しみにできるのも、まだ立教から日の浅い現在を生きる私達の特権ですね。
立教の理を胸に、教祖のお導きを心に頂き、一日一日を陽気に、素直に、
喜びの心で歩ませていただきます。
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