令和7年2月 今月のことば

阪神淡路大震災発生(1995年1月17日)より今年で30年経つ。

今年の年頭からこの震災に触れた報道を目にした方も多いと思う。

また、昨年の元旦に発生した能登半島地震についても、1年経つ。

お互いにいつ災害に見舞われても対応できるよう普段からの備えが大切だと思われる。

さて、私の被災地支援の最初の経験は、阪神淡路大震災の時だ。

発生から間もない2月1日より23日まで、大阪にある天理教大阪教務支庁に宿泊し

毎日被災地である神戸に通った。

もともと、2月には天理教の施設内の修繕清掃等のために1か月勤める予定だった。

しかしながら、1月の地震があったので急遽支援活動へと変更になった。

その当時、私も初めての経験だったのでシステム的なことは良く分からなかったが、

私たちの活動は主に被災した天理教の教会の支援だった。

地震の発生した地域はかなりの天理教会がある所だ。

支援と言っても半壊もしくは全壊の建物の撤去片付けだった。

出動の前夜、翌日の活動の場所や内容が発表される。

当日の朝は、朝勤め後、朝食を頂いく。

変な話だが、出発前にトイレを必ず済ます必要があった。

それは、被災地ではトイレが使えないからだ。

ライフラインの復旧どころの状態ではない時だった。

皆さんも今ならイメージ出来ると思う。

朝礼を済ませ、ダンプカーに2人ずつ乗車。お昼は毎日「缶飯」だ。

缶詰の中に味付けご飯が入っていて、大阪の婦人会の方が、お湯で温めてくれていた。

それと、飲物をダンプに乗せて被災地である神戸に出動する。

その中で、ある全壊の教会の片付けの時の話。確か、10名ほどの隊員で行った。

到着してまず整列、遥拝。引き続き、当該の教会長さんから挨拶と、

続けて作業内容の説明があった。瓦礫をダンプに乗せて処分場に運ぶこと。

あわせてのお願いは、大切なものを探して欲しいと言うことだった。

大切なものは、通帳などの貴重品と、もう一つの願いは、家族の写真だった。

この教会は、会長さん以外、全員亡くなっていた。

その家族の写真を探して欲しいという事だった。早速作業に取り掛かる。

瓦や、木材を分けながらダンプに乗せて処分場へ運ぶ。その当時全部手作業だった。

その会長さんから、「このあたりに通帳があるはずです。」などなど

指示を受けながらケガのないよう慎重に作業した。

「このあたりに確か写真やアルバムがあります。」材木等を撤去し続けた

。確か夕方近かったと思う。どこからか「写真ありました。」と、

隊員の叫び声が聞こえた。写真が会長さんの手に渡った。

会長さんの悲しそうな表情が今でも忘れられない。

一日の作業を終えて、全員整列。会長さんから話があった。

「お陰様で、大切なものを見つけて頂くことが出来ました。写真があって、

やっと心の整理がつくような気がいたします。皆様ありがとうございました。」

一同、喜びと悲しみが一挙に降ってきた気がした。

今でも忘れることの出来ない経験となった。

もう一つ、この震災支援での出来事。翌月の話である。

一旦長野に帰ってから、再び天理(おぢば)で開催される「学生生徒大学の部」の

係員として3月1日から直前の研修、そして3日より9日まで開催の行事だ。

その行事の中で、3月7日は、毎年大阪へ出向いて

天理教のみかぐらうたを唱えながら歩く「神名流し」と路上の傍らに立って

天理教の教えについて語る「路傍講演」を行う日だった。

しかしながら、震災があって間もないため、内容を変えて被災地支援に赴くことになった。

大学生と共々に現地へ行き、避難所のお昼に豚汁の炊き出しをすることになった。

しかし、私たちが豚汁を作るわけではなく、出来たもの現地で温め振る舞うことが目的だ。前日半日かけて、被災地へ行くための心の準備や、実際に行う事の確認、

そして、その他、何ができるかを大学生なりに思案した。

グループごとにアイデアを出しながらねりあいをした。

迎えた当日本部神殿でお願いづとめをし、近鉄天理駅より乗車。

乗り継いで大阪は「八百八橋」といわれる。電車に乗りながら橋を渡り兵庫県尼崎へ。

その途端、車窓から見える家々の屋根にブルーシートが掛けてあったり、

半壊や全壊の建物があったり。いままで、楽しそうに話をしていた学生たちが、

それを見た瞬間、しゃべり声がなくなり、涙ぐむ者もあらわれた。

確か、阪神電車だったと思う。震災の為神戸の手前まで不通だった。

そこから、徒歩で1時間くらい歩いたと思う。

神戸市東灘区の小学校のグラウンドに到着した。早速、炊き出しの準備。

また、他の学生はグラウンドの片隅で避難所にいる子どもたちと遊ぶ計画だった。

遊んでいる様子を見ていた。最初は計画どおり用意してきたゲームなど

楽しそうに遊んでいた。ところが、そのうち様子が変わってきた。

遊ぶというよりも、子どもたちが学生たちを叩いたり、蹴ったり、怒鳴ったり。

毎日の避難生活の中でストレスがたまっていたのだろう。

正直、止めようかと思ったくらいだった。

しかし、ふと、学生たちの様子をみると子どもたちからの攻撃を受けながら涙を浮かべ

「もっと叩け、もっと蹴れ、騒げ」と、真剣に受け身となっていた。

たぶん、その経験は、彼ら(学生たち)や、子どもたちの中に今も生き続け、

大きな「たすけの台」となって彼らを支えていることと思う。

諭達第4号に、「一れつ兄弟姉妹の自覚に基づき、人々が互いに立て合いたすけ合う、

陽気ぐらしの生き方が今こそ求められている。」とある。

陽気ぐらしをお望み下さる親神様、おやさまにお喜び頂けるよう、

親心に近づけるようどこにどんな思いがあるのかを尋ね、

おやさまにお喜び頂けるよう進む一年。

140年祭当日どんな姿をご覧頂くことが出来るのか仕上げの年に

改めて思案し実行していこう。


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