令和7年4月 今月のことば
文:倉石 信吾
今月18日は本部にて教祖(おやさま)誕生祭がつとめられます。
教祖は姿こそ見えませんがご存命です。
今年で227回目のお誕生日を迎えられます。
そこで、今回は教祖のひながたの中からお話をしようと思います。
諭達第四号の中に「教祖お一人から始まったこの道」とあります。
天保9年10月26日に月日のやしろとなられた教祖のお口を通して、
私たちは初めて親神様のご存在、人間の作られた意味を知りました。
そこから90歳で現し身(うつしみ)を隠されるまでの50年間を
「ひながた」と呼びます。ひながたは私たちが
陽気ぐらしに向かうためのたった一つの道です。
陽気ぐらし世界の実現のために、教祖がひながたを通して
お伝え下さったことは大きく二つあります。
それは、「おつとめをしましょう」ということと、
「人をたすけましょう」ということです。
一つ目の「おつとめをしましょう」ですが、
これは朝夕のおつとめのことではなく、本部で毎月つとめられる
「かぐらづとめ」のことです。おふでさきにも度々「つとめ」
という言葉が出てきて、その重要性をお説きくださっています。
ですが今日はおつとめのことではなく、二つ目の「ひとをたすけましょう」
にスポットを当てて話をしたいと思います。
教祖は世界一れつ兄弟姉妹(きょうだい)とお教えくださいました。
これは「神様の目から見れば人類はみな神の子であり、お互いは兄弟姉妹である。
兄弟姉妹ならばお互いにたすけ合い、陽気ぐらしを目指そう」という事です。
逸話編の百「人を救けるのやで」の中で、教祖に助けていただいた小西定吉
という人と教祖のやり取りに次のようなものがあります。
(前略)「この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」と、伺うと、
教祖は、「人を救けるのやで。」と、仰せられた。
それで、「どうしたら、人さんが救かりますか。」と、お尋ねすると、
教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」
と仰せられ(後略)
教祖ご在世当時、現在のような教義本や先人の先生たちの経験をまとめた書物などなく、
たすかりを願って教祖に会いにおぢばへ行くと、教祖やお側の先生から、
「元の理」「かしものかりもの」「十全の守護」「八つのほこり」などのお話を聞き、
教祖に撫でていただいたり、お側の先生におさづけを
取り次いでもらったりして不思議なご守護をいただくことが多かったようです。
逸話篇の中にも「神様のお話」や「珍しいお話」という言葉が何度も出てきます。
前述の逸話篇でも
「心配要らんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。
欲を離れなさいよ。」と、親心溢れるお言葉を頂いた。
とあります。なので教祖の仰った「あんたの救かったこと」とは、
教祖から聞いた「神様の話」とそれを聞いて、
また、実際にたすけていただいて自分がどのように心が変わったのかということを「話さして頂く」のではないかと私は思います。
私は恥ずかしながら、誰かにたすかってほしいと思った時に、
その人に変わってほしい部分を遠回しに伝えたり、
「こうやってやったら、こうなるんじゃないかな」と、
たすかり方まで自分の頭の中でメイキングしてしまうことがあります。
これは大きな勘違いです。私は神様ではないし、私には相手を変える力はありません。
相手の変わってほしい部分とは、自分にとって不都合な部分であり、
神様がそれを望んでいるかは、本当は分からないのです。
「身体はかりもの、心だけが我のもの」とお教えいただきます。
相手の心は相手だけのものです。変えることができるのはいつだって
自分のものである、自分の心だけです。相手を変えようとしている間は、
相手を変えることができないということです。私が本当にすべきことは、
ありのままの相手を受け入れ、教祖が教えてくださった親神様の教えと、
それによって私がたすかった話を人に話すことです。
また、「相手が神様から見せられていること」とだけ捉えるのではなく、
「相手を通して自分にもお見せいただいていること」と矢印を自分に向けて
自分自身も顧みることも大切だと思います。
そうして通る中に更なるたすかりが生まれ、そうしてまた誰かに話す「たすかった話」
が増え、いつの間にか人をたすけられる様になるのではないでしょうか。
実は今月は私も誕生日です。まだまだ未熟な私ですが年を重ねるごとに
低い心に、教祖のお心に近づけるように、小さな歩みを重ねていきたいと思います。
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