令和7年6月 今月のことば
先日、「ようぼく一斉活動日」という行事が開催された。
当教会が会場となった。この行事は、教祖140年祭へ向かう
三年千日の間、地域ごとに5回開催されることになっていて、
今回は4回目の開催であった。毎回、教会本部からのビデオメッセージが
10分程度あり、参加者みんなで拝聴する。
その後、「自主プログラム」として、会場ごとに内容を考えて行う。
自由度があって良いが、それがなかなか難しい。
今回の自主プログラムは、「お手直し」であった。「お手直し」とは、
神様から教えて頂いた「おつとめ」で行う「手振り」の手を、
正しく振れるよう学び、練習する事だ。
おぢばの教会本部より講師の先生がはるばる長野までお越しくださった。
講師は、飯降 力(いぶり ちから)先生で、教会本部の本部員の大先生である。
その先生から、直接お手直しをして頂けるなんて、うちでは後にも先にもないことだと思う。
さて、お手直しの前に「おつとめ」について、お話下さった。
最初に「理」ということについてお話された。
『天理の理という言葉をよく聞くけれど、この「理」という言葉は、
簡単に言えば、親神様の思召しとか、親神様の思いを「理」と言います。
また、天の理と言いますように、親神様が色々とお定めくださったルール、
世の中の「理(こと)わり」というか、これもまた「理」という訳ですね。
ですから、理を振るということ、これはつまりは私たちはおつとめで、
「おてふり」という手振りをする時には、「みかぐらうた」のお歌に合わせて
手を振る訳ですけども、この「みかぐらうた」のお言葉は、
親神様のお言葉そのものであり、このお言葉は、親神様の思召しそのままである
ということ。だから、そのお言葉に合わせて手を振るということは、
つまりは親神様の思召し、思いを振らせて頂く。
また、そこに込められた天の理を振らせて頂くということなんですね。』
とおっしゃった。
少々難しい話にはなるが、大切なおつとめ、また、よろづたすけのおつとめであるから、
この度の一斉活動日の企画になった訳である。
次に先生は、神様のお言葉を引用された(教祖伝より)
「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。ただ踊るのではない、理を振るのや。」
「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃして居るからや。
一つ手の振り方間違うても、よろしくない。このつとめで命の切換するのや。
大切なつとめやで」
改めて、お言葉を聞かせて頂き、おつとめの手振りは
正しく丁寧に行う事が大切なのだと感じた。
私たち天理教の教会は、この「おつとめ」をつとめる場所であり、
それぞれの教会でおつとめをつめることが、教会が存在している一番の意義である。
先生は、「おふでさき」から次のお言葉を引用された。
「つとめさいちがハんよふになあたなら 天のあたゑもちがう事なし」(おふでさき10号-34)
であった。
このお言葉の意味は、「月々のつとめさえ間違いなく行うようになったならば、
天の与えも確かに授ける」と注釈にある。
教祖ご在世当時は、天理教に対する世間の迫害干渉があり、
また、当時の警察が厳しく取り締まるという時代であった。そんな中、
教祖はおつとめをお教え下さり、しっかりおつとめを勤めるように
何度も何度も急き込まれた。しかし、おつとめをすると警察に教祖が拘引される。
実際に教祖は何度も拘引され、ご苦労下された。そんな過酷な状況にあっての
お言葉である。何と壮絶なお言葉であるか。
現在、当教会では毎月定めた12日に「月次祭」を勤めている。
その事によって、私が警察に連れていかれることはない。
当たり前のように、毎月、欠かすことなく月次祭を行う事が出来ている。
何と有難いことだろう。改めて、このお言葉が心に沁みた。
「天の与え」を頂ける有難いお言葉。「天の与え」とは、神様のご守護の事である。
どんな身上(病気)も、どんな事情(身の外に起きるもめ事など)も
ご守護頂けるのがこの「おつとめ」である。おつとめで神様の思召しである「理」を振る。
その「理」とは、「世界一列たすけたい」また、
「世界中の人間が陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたい」
との親神様の切なる思いである。
我々道のようぼくは、その理を正しく丁寧に振らせて頂き、これから末代、
月次祭を毎月滞ることなく勤めて、平和な陽気な世界に一日も早く立て替わることが
出来るよう精進し、祈り続けたい。
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